皓月庵

乙女ゲーム中心の趣味に走ったアナログ二次創作ブログ。マンガと小説のごちゃまぜ^^;

「君の名を呼べば」

「黒☆崎☆蒸☆留☆所」の酔狂元乙女さんから
以前頂いた『戯言いろは歌』から起こしたお話を書いてもらいました!
なので、一応このお話も「KISSシリーズ」のくくりに入れておきますね。

あのカラーKISSイラストを一つのお話の中に入れるとしたら、がっつり三つ巴♪
これはもう、私としては、絶対に形にしてもらってこの目で読んでみたかったので、
酔狂元乙女さんには、これでもか!とおねだりしていましたw

そして、出来上がったものがここに―――
待ってた甲斐がありましたよー ありがとうございます!!
この後も続くそうなので、この三つ巴がどうなるのか、読んだ方からも是非続きを書いてくれとせっついてあげて下さいwww

そしてこの三つ巴は、転生した現代でも続いていまして、その平成版は酔狂元乙女さんのサイトで連載されてます。
興味おありの方はそちらもご覧下さい。その際はネットマナーを遵守して下さいね。


では―――いつもよりちょっと長いですが、読みごたえはありますので^^
続きからどうぞお楽しみ下さい。



挿絵は全て、感謝を込めて酔狂元乙女さんに進呈します。
他の方はご遠慮下さいね。


君の名を呼べば



≪一≫

【雪村千鶴の独白】

――君の名を思えば、その姿、眼に浮かび、己が居住まいを正す。
――君の名を囁けば、心温まり、何故だか力が湧いてくる。
――君の名を呼べば、この胸、愛しさで溢れ、生きる喜びに満ちる。


カット352君の名を呼べば①


**


「斎藤さん」

彼女は痺れる腕を擦りながら、その名を思い、箒で庭を履き続けた。

「斎藤さん」

彼女は痛む腰を庇いながら、その名を囁き、重い洗濯物を持ち上げた。

「斎藤さん、雪村、頑張ります!」

彼女は、もう幾つ皮を剥いたか判らぬ野菜を手に、その名を呼んでじんと痛む肩を回した。

「俺を呼んだか、雪村」

いきなり声を掛けられて、千鶴は飛び上がった。そこには不思議そうに彼女を見つめる斎藤の姿があった。

「いえ、違います!独り言です」
「確かに俺の名を呼んでいたようだが」

勝手場の戸口に立ち、斎藤は柔らかな視線を千鶴に向け、その先の言葉を促す。

「あの……はい、確かに……すみません」
「別に咎めているのではない。何か用があったのか?」
「いえ、掛け声なんです」
「掛け声?」

こんな事を本人に言ってもよいのかと躊躇いながら、千鶴はその静かな瞳の追求から逃れられずに白状する。

「斎藤さんはいつも端正な日々を送っておられるので、私もあやかろうとついついお名前を掛け声代わりに……あ、あの、すみません!!」
「そうか……」

斎藤は表情を変えることなく、無言で千鶴の傍の水瓶へ近付くと、杓子で一掬い水を汲み、そのまま一気に飲み干した。
そして、礼儀正しい彼には珍しく、視線を遠くに遣ったまま、こう告げた。

「明日、新八の組と交代で、俺が非番になった。久しぶりに散策に出掛けようと思うのだが……その……あんたも来るか?」

思いがけないその言葉に、すぐに返答できず、千鶴は斎藤の顔を見上げた。
彼もまた彼女の方に顔を向ける。刹那、ぶつかる視線。
しかし、千鶴の返答の遅れを躊躇ととったのか、斎藤はぷいと視線を外して呟いた。

「長雨の鬱陶しい時期だからな、無理に外出するのは勧めぬが……」

はっと我に帰った彼女は、上擦った声ですかさず応えた。

「い、行きます!どこへでも御供します。外へ連れて行って下さい!!」
「そうか……なら、副長の許可は頂いておくから、朝の内に出立しよう」
「はい!よろしくお願いします」

実は千鶴は、ここ何日かを外出することなく過ごしていた。
梅雨時期特有の長雨の所為で、巡察の予定が変更になったり、体調を崩す隊士が増えていたからだ。
風邪でも引かれちゃ困ると、過保護な原田達に止められて、雨天時の巡察同行の許可が下りない日が多かった。そんな日は、病人の世話に追われる山崎の補助をしたり、屯所内の雑事を引き受ける井上の手伝いをしていたのだ。

(嬉しい……斎藤さんは私を気遣って下さったのかな)

用件が済めばさっさと退出していく斎藤の真っ直ぐな後姿を見送りながら、その気遣いだけではない何かを予感して、千鶴は久々の外出、それも斎藤の御伴が出来る事に、胸を高鳴らせてその日一日の仕事を終えた。


**


翌朝は曇天ながらも外出にはまずまずの天気だった。
千鶴は念のため、蛇の目傘を二本手に持ち、斎藤の後を三歩下がって歩いていた。
西の方に向かって随分と歩いていくと、人通りも少なくなり、あたりは長閑(のどか)な光景が広がっていた。

「雪村、そんなに離れなくともよい。俺の隣を歩け」
「よろしいのですか?いざ刀を抜かれる時にお邪魔では……」
「構わぬ。今日は隊務ではないのだから、その様な事にはなるまい」
「はい……」

斎藤は歩み寄ってきた千鶴の着物の袂を軽く引いて、自分の隣に彼女を引き寄せる。
その距離の近さに常にはない緊張が彼女を襲い、声を、体を、硬くさせた。

「そ、その……今日はどちらまで?わ、私がご一緒して良かったのでしょうか」

上擦った声で問いかける彼女に、彼は何故か薄っすらと笑みを浮かべて、ちらと視線をよこした。

「あんたを連れて都合が悪ければ、わざわざ誘わん。何を気にしている?」
「い、いえ、普段の巡察の方向と違うので……」
「紫陽花寺だ」
「あじさい?」
「今から行くのは、京出身の組下の者から聞いた、有名な寺だ。庭園一面に咲く紫陽花が、一見の価値があるらしい。だからあんたに見せてやろうと思ってな」

思いがけない言葉に、千鶴の胸がきゅっと締め付けられた。

「斎藤さん……ありがとうございます……」

彼の名を呼べば、心がじんわりと暖かくなる。
共に過ごす時間が長くなるほどに、その人となりを知れば知るほどに、彼の名は彼女にとっての幸せの呪文となる。

「斎藤さん……斎藤さん……」

千鶴は自分でも気付かずに、またその名をこっそり呟いていた。

「あんたは何故俺の名を呼ぶ?」
「え?ええ?呼んでいましたか?」
「ああ、さっきから俺の名をぶつぶつと呟いているぞ」
「す、すみません、つい癖になってしまっているようです」
「癖とはどういうことだ」

彼の声が少し不機嫌な色を帯びてくるのに、千鶴はどう説明したものかと身を竦めてしまう。そして、彼がそれ以上追求しないのを良い事に、そのまま黙って後をついていく。

「ほら、着いたぞ」

石段を登り、斎藤に促されて前方を見遣れば、視界一面に広がる紫の濃淡の競演。
新緑の縁取りがそれらを一層引き立て、夢のような光景が広がっていた。

「斎藤さん!これ……」思わず彼の名を呼ぶ。
「ああ、雪村、これだ」彼も彼女の名を呼んだ。

二人は同時に顔を見合わせて微笑み合った。

「不思議だな、雪村。俺もなんだかあんたの名を呼びたくなった。
雪村、雪村――何故かは判らぬが、あんたの名を呼べば、例え離れていてもすぐ傍にあんたがいる様な気がする。その……あんたはどんな時に俺の名を呼ぶのだ」

千鶴はすぐには、斎藤の問いに応える事が出来なかった。丁度、狭い通路を幾人かの見物客とすれ違い、よろめきながら歩いていたからだ。
その千鶴を見かねたのか、斎藤は彼女の手を取り、そっと握りしめながらそのまま引いて歩いた。その様子は、周りの見物客から見れば、凛とした佇まいの美しい若侍と小姓姿の愛らしい少年の、兄弟の様な二人連れに見えたかもしれない。
千鶴の意識は繋がれた手に集中し、紫陽花を楽しむどころではなくなってきたが、それでも健気に言葉を続けた。

「斎藤さんの名前を思うと、心が温かくなります。
斎藤さんの名前を心に思っただけで、斎藤さんの凛としたお姿が見えて、私もちゃんとしなくちゃって、自分を奮い立たせるんです。
朝起きるのがつらい時でも、体の具合が悪い時でも、斎藤さんの名前をそっと囁けば元気が出ます。斎藤さんはもっと大変なお仕事をされているのだから、自分も頑張ろうって」

素直な気持ちでそう答える千鶴の言葉を聞いて、斎藤は何故か顔を赤くして、まるで怒ったかのような表情を見せた。そうして普段よりさらにぶっきらぼうに応える。

「あ、あんたは十分良くやってくれている。お、俺の名で元気が出るのは結構だが、もっと人に助けを求めろ」
「はい、でも、幹部の皆さんの事を思えば、私に出来る事など限られていますし、大丈夫ですよ」

彼は黙って千鶴の手を引きながら、庭園の奥まった方へと向かい、二人はあたりをしばらく散策した。

空の色は次第に暗くなり、ぽつりぽつりと雨粒が落ちてきた。
斎藤と千鶴は手を離し、持参の傘を広げて前後に並んで歩く。
先程まで彼女を包みこんでいた、斎藤の手の温もりがすぐに消えていく。
その名残惜しさに、千鶴の胸の奥で寂しさがそっと声を上げる。

「雪村……朝がつらいとか、体調が悪い時だけか?俺の名を呼ぶのは?」

まだ少し目元を赤らめたまま、彼は尋ねる。

「いいえ、嬉しい時は“斎藤さん、嬉しい、聞いてください”って心で呟くし、父様を思って寂しくなった時も斎藤さんのお名前を頭に思い浮かべます。すると“大丈夫、心配ない”って思えてきます。お、沖田さんにからかわれた時は“斎藤さん、助けて”って心で叫びますし、何か腹が立った時は“斎藤さん、これどう思いますか”ってお腹の中で声に出します。だから私……四六時中、お名前を呼ばせて頂いています……ね…」

自分がどれだけ斎藤の名前を口にしているかを自覚して、顔に熱が上り、千鶴の声は段々と小さくなっていく。

「すみません、ただでさえお忙しい斎藤さんのお荷物にならない様にしなくてはいけないのに、例え心の中でも、こう何時も呼ばれていたらご迷惑でしたね……」

恥ずかしさにいたたまれなくなって、千鶴はしょんぼりと、足元の紫陽花に視線を移した。
するとなぜか、斎藤の白い足袋が彼女の足袋のすぐ傍に見えた。
次の瞬間、千鶴を襲う、柔らかな衝突と視界の暗転。
彼女は思わず頭を巡らせようとしたが、容易には動かせなかった。
それは、斎藤が自分の傘を脇に放り投げ、千鶴を両腕で抱き締めていたからだ。

「雪村」

千鶴の耳元に彼の声が響く。
それでようやく、自分が彼の腕の中にいるのだと気が付いた。

「さ…いとう……さん?」
「雪村…そのように俺を頼ってくれていたとは……」

体を屈めながら、千鶴の肩に顔を埋めて、斎藤は恥ずかしそうに呟いた。

「はい、自分でも今気がつきました」

千鶴は体中を血が駆け廻るかのような眩暈を感じて、立っているのもやっとだった。
斎藤は顔を上げると、その真摯な光を湛えた双眸で彼女を捉え、静かに告げた。

「俺は、俺の命は新選組の為にある。だから雪村の為に何かを約束してやる事は出来ぬが……。それでも、俺はあんたを護りたいと思うし、俺に出来る事なら何でも助けてやりたいと思っている。その気持ちだけは、はっきりとあんたに伝えられる」
「勿体無いお言葉です。私、斎藤さんに出会えて良かったと……斎藤さんのお傍に居られる――それだけで幸せだと……心からそう思います」
「俺も、だ。雪村、あんたと出会えて本当に良かった」

千鶴は、今になってようやく自分の気持ちを自覚する。

――私はこの人が好きだ。この人が大好きだ。

一旦自覚してしまえば、抑えようの無い気持ちが体中から溢れてくる。

斎藤もまた同様に、今迄どこか持て余していた己が感情が、千鶴への恋情であった事に驚きを覚えつつも、初めて体験する高揚感に浸っていた。
斎藤と千鶴は一つ傘の下、体を寄せ合ったまま、二人でしばらくの間、紫陽花の色の海に身を漂わせた。

「綺麗だな……紫陽花もあんたも。俺は今日のこの一瞬(ひととき)を忘れないと誓う」
「はい、私も一生この日を忘れません」

二人は互いの顔を見合わせて微笑み合った。
では、誓いの証を交わそう――そう言うと彼は彼女の持つ傘の柄を、人目を避けるように押し倒した。
二人は紫陽花の花の精に後押しされたかの如く、互いの顔を寄せて、そっと口づけを交わした。


空気が変わる。時間が止まる。
二人を包む空間がそこだけ切り取られて、世界には紫陽花の花々と二人だけ。
幸せな、ただ幸せな時間。

「雪村」
「斎藤さん」

また二人で互いの名を呼び合った。


――君の名を呼べば……世界の色が変わって見える――


それは、二人それぞれの最初の恋が、一番輝いた日だった。



**


戯言いろは歌 「あさきゆめみし 京恋歌」

陽花の咲き乱れたるは、彼岸(ひがん)か此岸(しがん)か、時間(とき)が止む。
月雨に、洗われし我らの想い、艶(あで)やかに。
日と言う日が過ぐるとも、我らが出逢いし喜びは続く。
見る果てに闇に落つるとも、ただこの一瞬(ひととき)を感謝する。
にも鮮やかに恋(濃)紫、薄紫。
から溢れいずる愛しさを覚え、
ばし許せよ、泡沫(うたかた)の、くちづけに遊ぶ我と君。

カット294


―――あさきゆめみし、ゑひもせす。
―――されど、この恋、夢見ざるは愚かなり。



注:五月雨(さみだれ)→陰暦五月ごろの長雨。梅雨。
注:いろは歌「あさきゆめみし」説→「(今まで私の人生は)浅はかな夢を見ていた」という一解釈で創作。



≪二≫


【沖田総司の独白】
――の名を思えば、愛らしき姿眼に浮かび、戯れに触れんと欲す。
――の名を聞けば、その武勇と覚悟に感嘆し、己が身の儚さを憂う。
――の名を記せば、血塗れた狼に付けられし“狂剣”の名がひとつ。
然るに、
――君の名を秘して胸の内に収めば、我、また誠の剣となりて、這い出せるや否や。
我が道は、私(し)を捨て、師に生き、死に舞いし、戯言舞台の奈落に落つるが如き狂気を孕むかな。
それでも尚、願わくば、命尽きるその瞬間(とき)に、花の顔(かんばせ)一目見ん。
望むは、君の、幸多き行く末なり。



(千鶴ちゃん・・・)

いつもの巡察からの帰路、少し緊張が緩んだところで、ふと君を想う。
いつからだろう、僕が君の姿を目で追うようになり、心に君の名を思うようになったのは。
悪戯ばかり仕掛けて、後ろから君に抱きついて。
自分でも随分長い間気がつかなかったんだ、君を好きだってことに。
僕は一君や平助より少しだけ年上なのに、君への想いに気付くのは彼らより遅かった。

――それは、僕にとって初めての感情だったから―――

僕が君への気持ちに気付いたのは、君と一君が想い合っているって知った時。
君が手に入らない花だと判って、初めて自分の気持ちに気がついた。
その時には、既に君の目は一君を追い、その唇は彼の名ばかり呼んでいた。

宙に漂う僕の想い―― それはどんどん膨れ上がって、やがて弾ける。
その残骸を掻き集め、僕はそれらを呑み込んだ。

君らしくないね――心の中の僕が嘲笑う。
仕方がないさ、所詮、僕は散りゆく身だし――心の中の僕に向かって弁解する。

判っているよ、あの二人がお似合いだって。
それでも、時々、僕の中の“弾けた想いの残骸”が、『奪ってしまえ』と僕をそそのかす。
まだ、彼女は彼一人のものではないってね。
それは耳をふさいでも、ふさいでも、僕の中から聞こえてくる。
僕は、まだまだ生きられる。そして、彼女はまだ誰のものでもないって……・。


ねえ、彼は勘づいたみたいだよ、君の気持に――心の中の僕が忠告する。
そうだね、どうしようか――心の僕に問いかけてみたものの、もう、応えはなかった……。


**


「千鶴ちゃん、ちょっと」

その部屋の前を通りかかると、開け放たれた室内の奥から、千鶴を呼びとめる声がした。

「はい、何でしょう、沖田さん」

千鶴は綺麗に畳んだ洗濯物を抱えたまま、部屋の前で膝をつき、遠慮がちに室内を覗きこんだ。
そこには沖田が、体を柱にもたせかけながら、だらしなく座っていた。

「うん、いいから入っておいでよ。僕の洗濯物もあるでしょ」
「あ、はい。先に土方さんのお部屋に寄ってからこちらにお持ちしようと…」
「土方さんのなんて後回しでいいから、まあ、こっちに来て座りなよ」

そう言うと、沖田は強引に千鶴を室内に誘った。
何やら良くない気配がする……千鶴の頭の中で警鐘が鳴り響くが、沖田に逆らう事は出来ない。
千鶴はやむなく、言われるままに部屋に入り、入口に近い場所に腰を下ろした。

「君さ、しばらく前に、一君と二人で出掛けたよね。何処へ行ったのかな?」

土方の許可があるとはいえ、斎藤と出掛けた事をこの沖田に告げて良いものか、一瞬の躊躇いが千鶴を口ごもらせる。
しかし、この男に誤魔化しや嘘が通用しない事を、彼女は身をもって知っていた。

「あ、紫陽花寺です」
「京の某寺の事?」
「はい、とても綺麗でした」

紫陽花見物だけで終わらなかったあの日の幸せな時間を思い出し、千鶴は思わず頬を染めて答えた。
そして、あの日以来、密かにもたらされた二人だけのごく短い逢瀬の回想が、一瞬のうちに脳裏に蘇る。

――庭の片隅で、勝手場で、夜半の縁側で。
人目を忍び、二人手を合わせ、指を絡めあう。
彼が自分の髪に触れ、その指で頬を撫でる。
或いは何かを耳打ちする振りをして、唇を頬に当ててくる。
更に彼女にとって最も心震わせた出来事は、数日前の深夜の自室で交わされた、抱擁と淡い口づけ。
それは暫しの時間、何度も繰り返されて――

ただそれだけの事だったが、始まったばかりの恋情に戸惑いと歓喜を覚える斎藤と千鶴にとっては十二分に甘い時間だった。

そのほんの僅かな回想にも千鶴の胸は高鳴りだし、体が熱くなるのを自覚する。
あからさまな変化が沖田の格好の餌食となるのは承知だが、自分でどうにかできるものではない。
悪い相手に呼び止められた不運を嘆くほかなかったのである。

「いいなあ、君だけ良い思いして。僕も行きたかったな」

口元は笑みを浮かべながらも、沖田の瞳には冷たい光があった。

「す、すみません。もしかして、沖田さんは斎藤さんとお出かけしたかったのですか?
それならすみません、斎藤さんをお借りしてしまって……」

沖田の視線に身を縮めて、千鶴は小さい声で応えた。
その様子に沖田は溜息をつく。

「君、何言ってるの。僕が行きたかったのは君とだよ。
それに一君と花見なんかしても嬉しくもなんともないよ。君って本当に鈍いね」
「申し訳ありません……」

自分と出掛けたかったと言いながらも、鈍いだのなんだのと苛めてくる沖田の言動に、千鶴は未だに慣れない。

「それとも本当は、君はしたたかなのかもね」
「どういう意味ですか?」
「どうせ誘ったのは一君の方でしょ?君、左之さんや平助とばかり仲がいいと思っていたら、いつの間にか一君まで取り込んじゃって。
誰にでもいい顔をして自分の立場を良くしようとしているのが見え見えだよね」
「私、そんなつもりは……」
「だってそうでしょ?一君は土方さんから君の面倒をみるように言われているけど、本当は君の監視役だってわかってるでしょ?それは今も変わらないよ。
君は案外賢いところがあるから、一君に気に入られれば何かと便宜を図ってもらえるって算段なんでしょ」
「ち、違います!誤解です」
「だったら、どうして二人きりで出掛けるのさ?
隊務でも、買い物でも無くて、男と女が二人きりで遠出するなんて怪しいじゃない」
「沖田さん、斎藤さんは立派な方です。最近私が屯所から出られなかったのをご存じで、気晴らしに連れ出して下さったのです。斎藤さんを悪くおっしゃらないでください」

泣き出したくなるのを堪えて訴えれば、相手はますます面白そうに畳み掛けてきた。

「斎藤さん、斎藤さんって……君は四六時中、一君の名前を呼んで。
千鶴ちゃん、自分で判ってる?何かある度に“斎藤さん”って、呟く癖のこと。
あれだけ毎日名前を呼ばれたら、いかに堅物の一君でも絆(ほだ)されちゃうよ」
「一体何を仰りたいのですか」
「四六時中、彼の名前を呼んでるってことは、四六時中、彼の事で頭が一杯ってことでしょう?自分で分からないの?故意に彼の名前を呼んでいないなら、君は一君が好きだってことだよ」

日常の言動から、斎藤への思慕を見事に言い当てられ、千鶴は身を硬くするしかなかった。
どうにかしてその場を立ち去ろうとするが、沖田が簡単に獲物を逃がす筈が無い。

「千鶴ちゃん、ずるいね。否定も肯定もしないんだね。
ねえ、もし君が一君の事を何とも思っていないなら、僕の名前も呼べるよね?」

柔らかな威嚇と妙に寂しげな甘えを含んで、その声は千鶴に纏わりつく。

「それとも病気の僕の名前なんか呼べないかなぁ」
「そんな事……仰らないでください」
「だったら、呼んでごらんよ、僕の名前」

ぎらぎらとその双眸に強い光を湛えて、沖田は千鶴に迫る。
その視線をまともには受け止められず、千鶴は思わず俯いて、声を絞り出した。

「お…きた……さ…ん」
「ほら、もっと」
「沖田さん…沖田さん……」

いつの間にか沖田は千鶴のすぐそばに近寄り、彼女の片腕を掴んでいた。

「もっと大きな声で、みんなに聞こえるように」

そう言うと、ぎゅっと力を込めて彼女の腕を掴み直した。

「沖田さん、沖田さん、沖田さん!!」

痛みに顔を歪めながら、彼の名を叫んだ。
ふと、廊下に人の気配を感じて、沖田が視線をそちらに向けた。
まるで待ち人来りとでもいうように、彼は悠然と入口に立った男に笑いかけた。

「やあ、一君、ようやく現れたね」

そこには厳しい表情の斎藤がいた。

「雪村の大きな声が聞こえたから覗いたまでだ」
「うん開け放してあるから、きっとみんなに聞こえたね、千鶴ちゃんの声」
「一体、何事だ」
「彼女ね、一君の名前ばかり呟いているから、君の事が好きなんでしょってからかってたんだ。ところが否定も肯定もしないから、それなら今度から何かあったら僕の名前を呼びなよってね、練習していたところさ」

沖田は一体どういうつもりなのか……。
その本心が読み取れない斎藤は、刺す様な視線を向けたまま、静かに警告した。

「総司、もう雪村をからかうな」
「いいじゃない、土方さんの心配性の所為で、僕、ちょっと咳き込むと外へ出してもらえないんだよ? つまり、彼女くらいしか遊び相手がいないんだから」

そう言うと斎藤に見せつける様に、沖田は千鶴を抱き寄せた。
と、同時に、斎藤が鋭い声を上げる。

「手を離せ!」
「なあに?」
「その手を離せと言ったんだ。雪村が嫌がっている」
「へえ、どうして彼女が嫌がっていると思うのさ。君こそ、こそこそ二人きりで出掛けて、そこで彼女に何かしたんじゃないの? 彼女さ、その時の事を聞いただけで真っ赤になって。君達、口づけでもした?だったら僕もいいよね?」

言うが早いか、沖田は千鶴を更にグイと引き寄せて、逃げる隙も与えず口づけようとした。
沖田の唇が千鶴の唇に触れるかどうかの瞬間、斎藤が荒稽古の時の様な気勢を上げ、飛びかかってきた。

「うおおおっっ――!!」
「ちょっと、なに!」

沖田はその攻撃を避けようとして、まず千鶴の身体を強く突き飛ばし、自らも身をひらりと翻す。
飛ばされた勢いで、千鶴は柱に体をしたたかに打ちつけ、眩暈を起こしてその場に倒れてしまった。
一瞬、千鶴の様子に気を取られた沖田だったが、斎藤が体の向きを反転させて、今度は拳を振り上げて突っ込んできた為、すぐに臨戦態勢に入る。
殴りかかろうと向かってくる斎藤をすんでのところでかわしていくが、狭い室内ではいささか動きにくい。
沖田は、千鶴が畳の上に置いた洗濯物を踏みつけてしまい、均衡を失って後ろによろめいてしまった。
そこへ斎藤が、沖田の腹に足蹴りを食らわした。
流石の彼も、その衝撃で畳の上にひっくり返った。

「ぐえっっ。これって…反則でしょう…土方さんみたいな事しないでよ」

苦し紛れに斎藤を責める沖田。喧嘩殺法に長けた土方の真似をしてまで勝ちたいのかと、沖田は斎藤の心情に尋常ならざるものを感じた。

「雪村に不埒な事をしようとするからだ。その体で思い知るがいい」

斎藤は殺気を漂わせて沖田を威嚇した。

間髪を入れず、彼は、自分より体の大きい沖田に馬乗りになった。
次の攻撃を待たず沖田は渾身の力を振り絞り、両手両足で斎藤の体を突き押した。
彼が怯んだ隙にすかさず起き上がって体勢を変え、今度は反撃、斎藤に足払いを掛けた。
斎藤は瞬時に後退しながら、刀に手を掛け、ついに鯉口を切った。
その独特の音が、場の緊張をさらに高める。
そして沖田も、足払いを掛けた後に刀掛の元へ駆け寄っていて、斎藤に少し遅れて脇差に手を掛けていた。

「やる気だね、一君。死にたいのかい?」
「それはこちらの台詞だ」
「千鶴ちゃんの事となると、どうしてそうもむきになるかなあ」
「お前こそ、何故そうも雪村に執着する」
「は、お互い判り切ってるでしょ、行くよ――!」

沖田が台詞を言い終わらぬうちに、斎藤が切先を煌めかせて一気に踏み込む。
室内での戦闘は、下手をすると刀が壁や天井に当たり、思わぬ事態を招く。
実は斎藤が抜いたのも脇差であった。
それを軽くかわした沖田が、ひらりと刀を返して突っ込んできた。
刀身が短い分、効果の薄れた沖田の突きを、斎藤は横とびに飛んでかわす。

――命までは取らない。しかし本気で勝負する――

互いに脇差を抜いたのは、そういう意志表示の現れでもあった。
もっとも、相手の実力は十二分に判っている。勝敗に拘れば、刀を鞘におさめる頃合いを見逃し、怪我どころか命を落とす羽目になりかねない事は承知の上だった。
もはや千鶴の事は失念し、二人は一流の剣客のみが持てる、凄味のある気を放ち始めていた。

そのまま二手、三手と遣り合ううちに、引くに引けない男の意地が頭をもたげる。
この場に限っては、“千鶴の気を引く”などということはどうでも良い。
日頃好敵手として認めている相手との勝負――それは己が存在意義の模索にも通じる、青い衝動でもあった。

大胆に間合いを詰めた沖田が一気に勝負に出た。刀身の短い脇差といえども、長身である分、腕の長さもある沖田の鋭い突きは、斎藤を防戦一方の劣勢に転じた。

「はああああああ―――っ」

天然理心流は“気合”の剣でもある。
腹の底から響く声を上げて、沖田が畳を蹴って突っ込んでくるのを、斎藤は身を転がして何とか避けた。
斎藤が押入れを背にしていた為、沖田の刀が襖に突き刺さる。
すぐさま立ち上がって体勢を立て直す斎藤。
そして刀を襖から抜こうと動く沖田。
それを阻止しようと、斎藤が己の愛刀を振り下そうとした瞬間に、意識を取り戻した千鶴の悲鳴が耳をつんざいた。

「きゃあああ、やめて、やめてくださいっ!!」

あろうことか、千鶴が叫びながら二人の間に、それも沖田の盾となるかの如く、無謀にもその小さな体を滑り込ませた。
その動きは普通の女人のものではあり得ず、まさに彼女が鬼である事を彷彿とさせるものであったが、その事を詮索する余裕は今の男達には無い。

「千鶴ちゃん!」「雪村っ!?」

鍛えられた剣客二人の眼力は、常人のそれを遥かに凌ぐ。どちらも千鶴の姿をいち早く視界に捉えて、己が動きを止めようとするが、とりわけ斎藤の、刀を振り下ろす際の勢いはそう簡単に止められるものではなかった。

「危ないっ!」「くっ」

沖田の悲痛な叫び。斎藤の焦燥の声。
斎藤の脇差の切っ先が危うく千鶴を引き裂く直前、沖田は襖から抜くべく刀の柄にかけていた手を離し、千鶴を両腕に抱きこむと、彼女の全身を覆うかの如くその場にしゃがみ込み、なんと斎藤に背中を向けた。
全てはほんの束の間の出来事――。

――総司が刀を捨て、自分に背を向けた――

眼前の光景に、斎藤は衝撃を受けた。
その分、刀を止める動きは、彼の意に反して鈍くなっていた。

あわや……の瞬間――。
きいいん、と響く金属音。

「おっと、危ない。おめえら部屋でこんなもの振り回して何やってんだ」

斎藤の持つ刀と沖田の背の僅かな隙間に、実は沖田、斎藤を凌いで新選組最強とも謳われる二番組組長の愛刀が差し込まれていた。双璧の争いの真最中に、仲裁に入れる者がいるとすれば、剛の剣のこの者しかいない。

「新八!!」

斎藤が慌てて刀を引く。
その声で、千鶴を包み込むようにしゃがんでいた沖田も上体を起こした。
その下には真っ青な顔で小さく震える千鶴がいた。

「おい!千鶴ちゃんか?いってえどうしたんだ!!」

永倉は驚いて沖田と千鶴、そして斎藤の三人を変わるがわる見遣る。
気まずそうに視線をそらし、苛立った様子の斎藤と、いつもの飄々とした態度は消えて神妙な顔つきの沖田。
そして、泣き出さんばかりの様子で沖田の下敷きになったままの千鶴。
三者の間に諍いがあったのは一目瞭然だった。
そこへもう一人、男が騒ぎを聞きつけてやってきた。

「総司、えらい物音がしたが、いるのか?おい、お前ら!」

原田左之助だった。
その場にまだ残る、ただならぬ殺気の名残と、沖田に組み敷かれている様にも見える千鶴の姿を認めて、原田の頭に一気に血が上る。

「総司!てめえ、千鶴に何したっ」
「嫌だなあ、左之さん。僕達ふざけて遊んでいただけだよ」
「これが遊んでいる雰囲気か!話しは後で聞く、千鶴こっちこい!」

原田は咄嗟の判断でこの場から千鶴を連れ出すのが先決と、沖田の体を押して千鶴の手を引っ張り、自分の方に引き寄せた。沖田もこの時ばかりは、素直にされるがままになっていた。

「千鶴は部屋に連れていく。言っとくが、この事は土方さんに報告しないわけにゃあいかないからな、覚悟しとけ」

流石にこの事態は、十番組を預かる組長として見過ごすわけにはいかなかった。原田は千鶴を抱きかかえ、永倉と共に部屋を退出する。
斎藤も沖田の方を見遣る事なく、部屋を出て行こうとした。

「一君」

その背に静かな声がかかる。それには、普段の彼とは異質の真剣味があった。

「ねえ、君、本当に僕を斬るつもりだったの」

斎藤は沖田の問いかけに足を止め、暫しの間、沈黙する。

「…謝罪する気は無い……」

ただ一言、そう言い残して出て行った。
その背を見送る沖田の表情には、すぐにいつもの飄々とした風情が戻っていた。

(あーあ、“うっかり”斬りそうになって謝罪かなァ。“本気で”斬るつもりだったから謝罪かなァ。まあ、どっちでもいいけどね……)
(それにしても、千鶴ちゃんには怖い思いをさせたから、これでもうすっかり嫌われちゃったね。むしろこれではっきりと僕を避ける理由が出来て、お互い良かったのかもしれないね)


自分に向かって、なりふり構わず飛びかかってきた斎藤。
私闘を禁ずる局中法度を知りながら、自ら先に鯉口を切った斎藤。
その行動に沖田は内心驚愕し、どこか敗北感にも似た思いを抱いていた。
沈着冷静な斎藤が、千鶴に対しては我を失うほどの思いを懸けだしたなら、元々斎藤に傾いていた千鶴とは上手くいくだろう。

彼女を呼ぶ自分の“心の声”が届かぬなら、いっそ本当に届かぬ距離にいてくれればいい。
畳の上に大の字に寝そべり、沖田は大きく伸びをした。

――僕は新選組の剣、局長の剣、ただ、それでいい。
――病が完全に僕を侵すまで、この身動く限り、近藤さんの為に生きよう。
――先の無い僕に、人並みの恋情など茶番だね。

沖田は、そう独りごちて目を閉じた。酷く疲れて睡魔が襲ってくる。

それでも……。
――どうして君は、僕を庇(かば)う様な真似をしたんだい?
――君をからかってばかりの僕を庇ったのは、君の優しさからだけなの?
――彼に斬られるとは思わなかったの?それとも彼を心底、信用していたのかな?

そうだとしたら、やっぱり茶番だよ。僕は虚しい道化者――そう思ってまた独りごちた。

あはは!――遠のく意識の底で、もう一人の自分が笑った様な気がした。

『それでもあの子に、あの笑顔に出会えて、よかったんだよ。そう思うでしょ?』

うん、そうだね、あの初めて会った夜、あの子を斬らなくてよかったよ……。



もはや自分には夢見など叶わぬものを……。
それでも沖田は、土方の怒号に起こされるまで、儚い夢見に浸るのだった。





≪三≫


【斎藤一の独白】
――の名を呼べば、愛しき姿眼に浮かび、喜ばしさに己が身を震わす。
――の名を聞けば、名状し難き思いに囚われ、醜き己と対峙する。
――の名を記せば、道に迷う青き獣に付けられし“孤剣”の名がひとつ。
然るに、
――君の名を秘して胸の内に収めば、我、また誠の武士(もののふ)となりて、歩み出せるや否や。
我が道は、私(し)を捨て、志(し)に生き、死に舞いし、泡沫舞台の花道をゆくが如き潔さを旨とせん。
それでも尚、願わくば、命尽きるその瞬間(とき)に、花の顔(かんばせ)一目見ん。
望むは、君の、幸多き行く末なり。


**


沖田の部屋を出て自室に戻った斎藤は、刀を置き、そのまま、ぼう然と座り込んだ。

――沖田総司が背中を向けた――

その意味を己の中で問い続ける。
日常の言動とは裏腹に、こと刀を振るう時の沖田は、名高い第一級の剣客である。
相手を斬る事に躊躇いの無い、冷徹であり無垢とも言えるその剣には、永倉や自分にもない凄味さえ感じる。
勝負の最中に背中を向けるという事は、勝負を投げ出したも同じ事。
こと新選組では「士道不覚悟」の一言の下に制裁を受ける、あるまじき失態となる。
以前の沖田総司という人間なら考えられない事を、彼はやったのだ。

――全ては雪村を庇う為――

何故か……など問うことすら愚の骨頂。
いつの間に……と。そこまで……と。そんなにも……と。
斎藤は呟き、苦悩した。
千鶴が自分達の間に割り入ってきた時、勿論視界には捉えていた。
だが、すぐに刀を止められなかったのは何故か。

――全ては己の弱さから――

それは、千鶴が沖田を庇うように間に立ったことへの驚きと、沖田が命を賭して千鶴に覆いかぶさり助けようとしたことへの驚きとの双方から受けた衝撃が、斎藤の心を迷わせ、弱らせた。
その弱さが一瞬の判断を遅らせ、既に力は緩めてはいながらも、沖田や千鶴に大怪我を負わせていたかもしれないところだったのだ。
敵方の剣士相手なら、研ぎ澄まされた技で以って自由自在に操れる剣を、こうも鈍らせたのは己の弱き心。
これでは、新選組最強の剣士に数えられる男としても、千鶴と淡い思いをかわした一人の男としても、あまりにも情けない――斎藤は得も言われぬ屈辱感に塗(まみ)れていた。

「斎藤、土方さんが部屋まで来てくれ、だとさ」

原田が部屋まで呼びに来た。
呼び出しは覚悟の上。自分から報告に行こうとすら思っていたところだ。

原田に向かって、あの後雪村はどうした…と問いかけて、言葉を呑み込んだ。
千鶴からあらかたの事情を聞いたのか、目前の男の表情は硬い。
どちらにしても左之なら雪村を慰め、面倒をみるだろう、そう思って立ち上がる。

「ああ、顔を洗ったらすぐ行く」

この情けない顔を、副長の前に晒したくはなかった。
私闘は切腹――最悪を覚悟せねば。
斎藤は中庭に降り立ち、井戸に向かう。





着物をはだけ、水をくみ上げ、そのまま何度も頭から被った。
ずっとこのまま水を被っていたい、そんな思いが斎藤の頭を過ぎった時、何者かの気配。
顔を上げずとも、彼にはすぐにその気配の主が判った。

「あの…どうぞ」

千鶴が遠慮がちに手拭を差し出していた。
斎藤は千鶴の方を見遣るが、その表情は酷く強張ったままだった。


カット33

「いらぬ。余計な気遣いは無用だ」
「で、でも、そのままでは・・・」
「構わぬ。独りにしてくれ」
差し出された手を荒々しく払いのけると、斎藤は彼女を睨みつけた。
昨日までは優しい視線を向けてくれていた男の厳しい表情に、千鶴は戸惑いを隠せない。

「せめて……お礼を言わせて下さい」
「何を、だ」
「あの…沖田さんのおふざけから救って下さったことです」
「救うだと?」

その氷の如き冷たい声色に、千鶴はびくりと身を震わせた。
斎藤は濡れたままの上半身を起こした。そしてやはり濡れたままの顔を手で拭おうともせず、おもむろに立ち上がる。

「救ったのはあんた達同士だ。あんたは総司を庇い、総司はあんたを庇い、救いあったではないか。俺は刀を振り回す茶番に付き合わされて、これから士道不覚悟の沙汰を受けねばならぬ。副長に呼ばれている。時間が無い。もう俺からは離れてくれ」

俺から離れてくれ。それは、――俺とお前は終わりだ―― あたかもそう告げられたように千鶴は感じた。彼のその態度の変化に千鶴は戸惑う。先程の争いで、何かが斎藤の中で生じたのか。

「さっき、原田さんと一緒に、土方さんのお部屋で事情を聞かれました。
私、ちゃんと斎藤さんは何も悪くないって……ただ沖田さんが私をからかったのを斎藤さんが助けようとしている内に、少し度が過ぎてお二人がふざけ合われたんですって……そう申し上げました!」
「余計な事を言うな!」

斎藤の激昂に二人は戸惑った。千鶴のみならず、斎藤自身も……。
斎藤が苛立ちを隠そうともせずその場を立ち去るのを、千鶴はただ黙って頭を下げ、見送るしかなかった。





斎藤は自室で手早く身を拭い、乾いた着物に着替えて身支度を整えると、腰に刀を差し、深く呼吸して目を閉じた。

――これが、嫉妬なのか?そうなのか?

果たしてその一言で片づけるには口惜しいほどの、名状し難き感情が腹の底を渦巻いていた。
ひとりの剣士としての沖田、ひとりの男としての沖田。
自分と表裏一体であるかのように近しく感じる時もあれば、理解に苦しむ存在でもある。
咄嗟の事だ。千鶴の場合は、沖田を庇う意図で割り込んだのではなかったのかもしれない。
だが、少なくとも沖田は、あの誇り高い剣士は、咄嗟の判断が出来る男だ。
死線を潜り抜けてきた者だけが持つ、刹那の判断が。
沖田が剣を取らずに千鶴を守った事をどう捉える?それは沖田の、千鶴への強い想いがあったに他ならない。

――臆病者。認めろ。少なくともお前は男として、沖田総司に負けたのだ――

斎藤は静かに目を見開いた。

どちらにしろ、もう遅い。全ては終わったのだ。
後は沙汰を待ち、粛々とこの身を散らすのみ。
静かな瞳に強い覚悟を湛えて、彼は副長土方の部屋へと向かった。





≪四≫


数日後の朝。

「では、歳、行ってくる」
「ああ、気をつけてな。総司、近藤さんを頼んだぞ。千鶴はしっかり総司を見張れ」

早朝にもかかわらず、土方は、密やかに出立する一行を見送る為に玄関口まで出てきていた。
一行とは、表向き、洛外の寺院を私用で尋ねる局長近藤と、それを護衛する沖田及び一番組の隊士二名、そして近藤の計らいで同行する事になった千鶴の五人である。

表には裏がある。
今回の遠出は近藤の私用の他に、沖田の謹慎処分を兼ねていた。
つい数日前、一番組組長沖田総司と三番組組長斎藤一が雪村千鶴という一人の少女を巡って、修羅場を演じた。ただ、仲裁に入った原田左之助と永倉新八が、副長土方の事情聴取に対して、『報告はしたものの、あれは度の過ぎたふざけあいであった』と証言した為、事は内々に処理されることとなった。

土方はまず、二人の組長をしばらく引き離すことにした。
沖田は洛外の避暑地の庵で謹慎させ、斎藤には留守中の沖田の分の仕事を与えた。
つまり、沖田には言ってみれば『所払い』、斎藤には『重い労役』を与えたことになる。

日頃から近藤の傍を離れたがらない沖田を外に出す為に、近藤自らが所用にかこつけて沖田を連れだした。
土方から詳細を聞かされていない近藤は、沖田を避暑地で静養させると信じ込み、嬉々として沖田の引率役を買ってでた。しかも千鶴を同行させるという、沖田にとってはご褒美付きだ。

一見、沖田にとっては処分どころか寛大ともとれる措置だが、土方はそんな甘い男ではなかった。
近藤は自身の所用を済ませば千鶴を連れて、今度は大阪の松本良順の元へ出掛けることになっていた。
結局、自分だけが山中の庵で、幾日か孤独に過ごす事になるのを、沖田は知らされていなかった。
千鶴に世話をしてもらえると思いこんだ沖田が、代わって様子を見に訪れる島田や山崎の顔を見た時の様子を想像して、土方は底意地の悪い笑みを浮かべる。
孤独になって頭を冷やせ。病人は大人しく寝ていろ――それが沖田に対してまだどこか甘い、土方なりの灸の据え方だった。

片や斎藤には、沖田の分の、それもあれこれ追加した仕事を負担させることで、昼夜を分かたず重労働を強い、雑念の付け入る余地を無くした。
土方は、隊務に支障が出る事を何よりも恐れた。
女、それもまだ餓鬼のような千鶴相手の幼い恋情に、斎藤を斎藤たらしめる沈着冷静さを失うなど、笑止。
甘ったるい感情に流され、己を見失う事こそが最大の士道不覚悟だと、斎藤を一喝した。
沖田が戦線離脱するのは時間の問題。すぐに斎藤抜きにはやっていけない日が来るのだ。

(お前ら、よりによって、今頃初恋か。どうせならもっと早く、江戸にいる時分にでも済ませときゃよかったものを…)

土方は、目前の男達の監督が甘かった自分にも舌打ちする。


「局長、お気をつけて」
「ああ、斎藤君、後は頼んだぞ」

斎藤は局長の近藤に別れを告げるが、沖田と千鶴には一声もかけず、黙って土方の後についた。
それでも一度だけ、千鶴に向かって感情の見えない視線を送り、密かに目で別れを告げた。
あたかも、今生の別れを告げるかのように。
千鶴にとっては、そんな視線すら、縋ってしまいたい想いにかられていたのだが……。

「彼女が心配でわざわざ見送りに来たってわけかい?
刀を抜いたのは君が先なのに、お咎めなしなんて鬼のあの人の依怙贔屓(えこひいき)にも程があるよ。ああ、でも千鶴ちゃんをしばらく取り上げられて、君にとってはその方が痛い処分かな」

沖田が斎藤に近付き、耳元でそっと囁いた。
斎藤の目が一瞬強い光を放つが、彼は取り戻した鉄の自制心でもって、その口元を引き締めるに留めた。
その無反応ぶりに沖田は僅かに苦笑すると、先程から自分を睨みつけている土方に向かって挨拶した。

「じゃあ、行ってきます、土方さん」
「馬鹿野郎、頭、十分冷やしてこい」
「はい、そうしますよ」

土方に促されて、近藤と沖田と千鶴は其々の駕籠に乗り込んだ。


**


「総司、大丈夫か?少し休憩しよう」
「平気ですよ、近藤さん。あと少しで着くのでしょう?」

近藤は沖田を気遣って駕籠を止め、その様子を見に傍まで寄って声をかけていた。

(本当は平気じゃない。山道の登りでこんなに駕籠が揺れて気分が悪くなるなんて。ただでさえ息苦しいのに吐き気がしてくる。情けないよね。警護すべき筈の近藤さんに気遣ってもらって、こんなんじゃ、近藤さんの剣と言えないよ)

「総司、俺は先に行って用事を済ませてくるから、お前と雪村君はこの辺で暫く休んでから寺へ来るといい。なんなら後で馬を連れて迎えをやるぞ」

「僕が近藤さんから離れるわけにいきませんよ。このまま出立して下さい」
「いや、雪村君も少し休ませた方がいい。総司、お前がついていれば安心だから、彼女についていてくれるか」

どうやら沖田同様、千鶴も具合が悪くなったらしい。
やむを得ず近藤の指示に従い、二人は傍の川辺で休息を取る事にした。
駕籠かきの人夫達もここで一息入れた後、引き揚げる事になった。
目的地は近いのだが、この先の道を駕籠で登るには少々無理があったからだ。
勇猛な一番組隊士二人が近藤の前後を固めてつき従い、徒歩だというのに一同は瞬く間に姿を消した。
沖田はその背を見送って、傍にしゃがみ込む千鶴に声をかけた。

「千鶴ちゃん、そこの川辺まで歩けるかい」
「………」

(千鶴ちゃん、まだ口をきいてくれないんだ)

あの事件以来、斎藤と沖田は急を要する隊務時以外は自室謹慎を命じられ、千鶴は今朝まで二人との接触を禁じられていた。
偶然、廊下などで遭遇する事があっても、千鶴は沖田に対しては必死に無視を決め込み、斎藤に対しては眼を潤ませて黙礼するのみだったのだ。

彼女は真っ青な顔をして、気分悪そうに胸を押さえていた。
窮屈な駕籠から出て少し気分が良くなった沖田は、彼女を支える為に手を差し出した。

「千鶴ちゃん、ほら、手を出して」

意地を張るにも彼女の気分が悪すぎたのだろう、無言のまま、手を出してきた。
彼はその頼りなげな手を取って山道を外れ、立札に従い、せせらぎの方に向かってゆっくり歩を進めた。
下草を踏みしめ、少し開けた場所に出れば、一面に広がる緑の光景。
川辺にそって、樹木が生い茂り、水面の上に覆いかぶさらんばかりに枝を伸ばした大木が幾つも有り、あちらこちらに日陰を作っていた。

「ねえ、そこの岩の上に腰を下ろそうよ」

二人は足を傷つけないよう、草鞋のまま川に入り、浅瀬の大きな岩を目指す。
千鶴は袴の裾を片手で絡め、少し持ち上げて、恐る恐る水に入る。
その仕草は若い娘そのもので、裾から除く白いふくらはぎを目の当たりにし、沖田は期せずして目を細めた。
頭上に広がる、生命力溢れる緑の日除け。
それが川岸に幾重にも重なって薄緑・濃緑の文様を描きだす。

(京の街の中心から少し遠出しただけで、こんなに涼しい場所があったなんて……)

土方がこの地で自分を謹慎(静養)させようとした訳が、なんとなく分かったような気がした。

この夏の暑さは、体力自慢の永倉や島田でも音を上げていた。
沖田自身もたまの巡察後に屯所に帰り着けば、息を整えるのに時間を要するようになっていた。
少しずつ、ほんの少しずつ病魔は彼から力を奪ってゆく。
そんな時は、そっと千鶴の名を小さく呼んだ。

(平気さ、まだ頑張れる。君の名を呼べば、君の姿が目に浮かぶから。ぱたぱたと飛んできて、「おかえりなさい、沖田さん」とあの笑顔で労ってくれるから)

沖田は千鶴に手を貸して岩の上に座らせると、自分は清流の中ほどに入り、腰に下げた竹筒の中身を水に流し、新鮮な川の水を汲んだ。ざばざばと音を立てて戻ると、それをそのまま彼女に差し出す。

「はい、これ飲んで。気分が良くなると思うよ」
「……す、すみません…」
「あは、やっと口を開いたね。君の声、忘れるところだったよ」
「………」

沖田がいつもの調子で軽口をたたく。
しかし彼女は、水を少し含んだ後は、また口を閉ざしてしまった。だが、彼は気にしないことにした。

(礼儀正しく、人の心配ばかりしているこの子が、ずっと無言でいるなんて、到底、無理だもの)

彼は千鶴の隣によいしょと腰掛け、彼女から戻された竹筒の水を飲み干した。
喉に沁み渡る清水の心地よさが、深緑の清々しさが、川面を渡る風の涼しさが、じわじわと二人の心を解していく。

「ねえ、まだあの時の事、怒っているの?悪かったよ。本当に謝るよ。だから口をきいてくれないかな」
「ご……ごめんなさい……無理です…」
「あれえ、今、喋ったよ」

そう言うと彼女はぷいと横を向いてしまった。
沖田は岩から降りてまた川に足をつけると、今度は両手で水を掬って二、三度顔を洗った。

――波打つ水面に映る歪んだ己の姿。それはそのまま己の心根の様で――

手で水を掬い、口に含んだ。それは勢いで少しだけ喉に詰まり、彼は軽く咳込む。

「お、沖田さん!苦しいのですか?」

顔を背けていた千鶴が慌てた様子で腰かけていた岩から降り、声を掛けてきた。
袴の裾が水に浸かり、ゆらゆらと踊る白い水藻のようだ。

(ああ、君って本当に優しい子だね。この優しさが誰にでも向けられるから始末が悪い)

「心配いらないよ。いつもの咳じゃない。咽(むせ)ただけ。あのさ、足、濡れたままじゃ気持ち悪いでしょ。裸足になるといいよ」

沖田は彼女をひょいと抱きあげて岩の上に再び座らせる。
そして彼女の片足を掴むと草鞋を取って岩の上に置き、濡れて張り付いている足袋に手を掛けた。

「きゃっ、じ、自分でやりますから」

顔を赤らめて彼女が慌てて沖田の手を払いのけ、自分で両の足袋を脱いで岩の上に干すように置いた。
袴の下に見える白い足首。足袋から出てきた白い爪先
こうも男と女の足は違うのかと、沖田は今更ながら目を瞠る。

(この小さな足で江戸から京まで歩き、この小さな足で僕らの巡察について廻り、そして屯所の中を走り回って……。強い。君はこの華奢な自分の足で運命を切り開いてきた、とても強い子だよ)

彼は千鶴の隣に腰掛け、川面に目を向けたまま、自分でも驚くほど静かな落ち着いた声で千鶴に話し出した。

「どうして君なんかを好きになっちゃたのかな。最初は君を斬るつもりだったのにね。自分でも不思議なんだ。
しかも、自分の気持ちに気がついたのは、君達が互いに気持ちを寄せ合うようになってから。そしてね、決定的だったのは、僕に対する一君の視線。僕が君を見ていると、彼はいつしか刺す様な視線を向けてきた。それで逆に、自分の感情がはっきりとしたわけさ。
あの朴念仁が、恋をした途端、男女の醸し出す気配に敏感になるんだから、変われば変わるものだよね。もっとも君限定だってのはご愛敬だけどね」

思いがけない沖田の言葉を聞いて、千鶴は自分の耳を疑った。

(何…?沖田さん、一体何を言いいだすの……)

彼が自分の事を好きだと言うこと自体、千鶴には大いなる違和感があった。
だが、彼のその、真摯で静かな声の響きに導かれ、彼女は沖田の方に顔を向けて、じっと話に耳を傾けた。

「酷いよね。君を見つけてその名を呼ぼうとしても、君はもう、無邪気に応えてくれなくなった。僕はその他大勢の中の一人。君の大きな瞳はいつの間にか一君を追っていて、やがて一君も君を見るようになり、君達は誰が見てもお似合いの二人。
僕は何だか面白くなくて、よく君達二人に酷い態度をとったけれど、内心では君達の間に入る隙間はないと思っていた。
それに、君達の恋はあまりにも可愛らしくて。君達が恋を自覚するずっと前から、僕や左之さんとでままごとみたいな恋だねって、噂してた。だから、君達を壊す気はなかったんだ。これは本当だよ」

沖田はようやく千鶴に顔を向け、半信半疑の表情を見せる彼女を見て、小さく笑いかけた。

「でもね、いつからか、そんな風に見守る事が苦しくなってきたんだ。いつも心の中では君の名を呼んでいたよ。君の名前を思って、呼んで、時には叫んで。
君の耳には届かなかったけれど。だって君はいつも彼の名を思い、囁き、呼んでいた。
だから僕の声は君には届かない――そう諦めていた。
それでも僕は、君の名を叫びたくて、叫びたくて。大声で叫びたくて。
僕はここだよ。僕を見て。僕を認めてってね。
心の中で叫べば叫ぶほど――狂おしくて、哀しくて……」

ここまで一息に喋り、喉の渇きに誘発されたのか、沖田は急に咳こんだ。

「沖田さん、大丈夫ですか!」

口を閉ざしていた千鶴が、心配そうな声を上げるのにどこか満足感を得ながら、沖田は手で彼女を制した。

「大丈夫。この咳は心配いらないよ。あのさ、咳にもいろいろあるみたいだよ?
例えばね……君達がそっと微笑みあう姿を見ると、腹の中で狂おしさって奴が暴れ出すんだ。そうすると腹の妖魔と胸の病魔が絡み合って、堰を切って喉から溢れ出て来るのさ」

彼女が悲痛な様子で沖田を見つめる。
その悲しげな顔を直視できなくて、彼は眼を逸らした。

「いつの間にかさ、僕は咳が出るのは病気の所為じゃないと思うようになった。これは僕の内の魔物を吐き出す為の苦行。君の名を、声を出して叫ぶ代わりの哀しい何かだってね。
あーあ、君にこんな事言うつもりはなかったんだけどな……ねえ、千鶴ちゃん、僕は君の事が本当に好きみたいなんだ。いつの間にか君に恋していたのさ」

沖田はそっと彼女に顔を向けた。
彼女の瞳は涙を溜めながらも彼だけを真っ直ぐに見て、その瞳は彼だけを映しこんでいた。


カット356君の名を呼べば②


「沖田さんは・・・酷いです・・・」
「どうしてかな」

千鶴はその大きな瞳から涙をぽろぽろ零して、彼に話し始める。

「あんなに……池田屋の時でも、日々の巡察でも…何度も私を守って下さったのに、時には怪我をしてまで私を助けて下さったのに…心はちっとも開いてくださらなかった。からかったり、悪戯したりしてすぐ傍にいるかと思えば次の瞬間には突き放される…。表面では私の名前を親しげに呼んで下さっても、眼はちっとも笑ってなくて……私…どうしていいか…ずっと、ずっと、怖くて、悲しくて…、沖田さんが判らなくて…寂しかった……」
「ごめんよ。確かに君に冷たく当っていた事は認めるよ」

千鶴は溢れだす涙を抑えきれず、しゃくり上げながら、沖田に感情をぶつけ出した。

「そうです、ひ、酷いです!い、今更……今頃になって、そんな…そんなこと言われても!わ…わたしどうしたらいいんですか!!」
「ごめん。ごめんよ……今はそれしか言えない…」

千鶴の言葉に居た堪れない気持ちになり、彼は岩から降りて、川岸に近い浅瀬に少し移動した。
川の水の冷たさが、気持ちを落ち着かせてくれた。

「お、沖田さん……」

袖口で涙を押さえながら、千鶴が掠れた声で彼の名を呼ぶ。

「ん?」
「どうして……どうしてあの時、私を庇って…刀を捨ててまで私を助けて下さったんですか」
「だって、一君のあの速さだよ?刀を取るより先に、君に覆いかぶさらないと間に合わないと思ったのさ。それよりさ……僕も…聞いていいかな…」

沖田は、彼にしては有り得ないほど躊躇いがちな様子で言葉を続けた。

「君…君こそ、どうして僕を庇ったのさ?喧嘩を止める為なら、別に一君の足元にしがみ付いたって良かったんだよ。彼に斬られるとは思わなかったの?」
「自分でも…判らないんです。必死で、何も覚えていなくて……」
「一君なら、絶対、君を斬らないって安心していたわけ?勿論、彼ならちゃんと、紙一重のところで刀を止められただろうけどね」
「私、多分、自分が沖田さんを守らなくちゃって…勝手に体が動いたんだと思います……沖田さんが今まで何度も私を守って下さったから……」
「それは…僕を本当に心配してくれたと思って良いのかな」
「………」

答えに窮して俯いてしまった千鶴を、沖田はただ愛らしい、愛しいと思った。
理屈はどうでも良い、彼女がその心で自分の名を呼ばなくとも、その瞳に自分が映っていなくとも、彼女の取った行動が嬉しかった。
どんな理由からにせよ、その気持ちに一筋の光を見た気がした。
その光が、沖田の背中を押した。
その天性の勘も、沖田の背中を押した。
今、この場でなければ、屯所から離れて二人だけの時と場所でなければ、叶わないことがあると。
今日、この時を逃せば、もう二度と自分は彼女に本心を明かす事はないだろうと……。

「僕を好きになってとは言わないよ。君が誰を思っているかは判っているから
それでも……一度だけ、たった一度の思い出を僕にくれないかな。
このお日様と、生命が溢れているみたいな緑の木立と、せせらぎが証人になってくれる。
僕がこの世に生きた証、ちゃんと人を好きになれた、一人の男だったって証が欲しいんだ。
血塗られた剣としての僕じゃなくてね……」
「沖田…さ……ん」
「うん、もっと呼んでくれるかな、僕の名前を」
「沖田さん、沖田さん……」
「千鶴ちゃん、もう一度、呼んでよ」
「沖田さん!」

千鶴は今初めて、沖田と言う男を見た気がした。
彼の剣に懸ける想い、近藤を慕う想いの強さを知れば知るほどに、自分の事など、この人の眼中にはないのだと思っていた。
どんなに役に立ちたいと願っても、彼にとっては足手纏いの取るに足りない娘だから、突き放されてばかりなのだと思いこんでいた。
自分は何も見ていなかったのだ。何も耳を傾けていなかったのだ。
彼はちゃんと自分に視線を向け、自分の名を呼んでいたのに……。

自分を見つめる翡翠色の美しい瞳に囚われて、吸い寄せられるように、千鶴は岩から降り立ち、右手で袴を絡めて持ち上げた。そのまま彼の方へそろりと歩を進める。
彼は片手を大きく伸ばし、千鶴を迎え入れる。千鶴は袴の裾を持ち上げたまま、水に沈む岩の上に足を乗せ、沖田の方へ体を伸ばした。
彼は千鶴が滑らない様しっかりとその二の腕を掴み、右手は体を支える為に太い枝を掴む。

さらさらと流れゆく清流。
さらさらと風にそよぐ少女の前髪。
呑み込んで腹に収めた筈の狂おしい想いを吐露すれば、それらはせせらぎに浄化されて、さらさらと流れてゆく。



二人だけの世界で、沖田と千鶴は見つめあう。
互いの瞳に互いの姿だけを映しこんで、静かにその身を寄せ合った。

――僕にとって最初で、恐らく最後の恋。
――君に恋した事は後悔しないよ
――そして、これからも君の事を思いつづける。
――この先、僕の人生が地獄行きになろうとも、
――地の果て、地獄の果てまで、僕一人でこの恋を、君への想いを連れていくよ。


万感の思いを込めて、彼は千鶴に口づけた。
初めはそっと、互いの存在を確かめる様に淡く。次第にそれは、切なく、深く。

今迄に斎藤から受けた甘い口付けとは違うその切なさに、千鶴の心は震えた。
彼の想いが自分の中に流れ込んでくるような気がして眩暈すら覚える。
沖田は名残惜し気に唇を離すと、千鶴を両腕でしっかりと抱きしめた。

――君は今日、初めて本当の僕を知った。
――君は今日、初めて僕の声に気づき、僕の視線の意味に気がついた。
――そして君はようやく呼んだんだ、僕の名を。他の誰でもない、僕の名前を。
――少しだけ願ってもいいのかな、君が僕の名をもう一度呼ぶ事を。
――僕の名前と彼の名前。
――君はこの先、どちらを呼ぶのかな……。

彼は証人達、太陽と緑とせせらぎ達に向かって、心の中で感謝した。


――ありがとう、僕に勇気をくれて…僕が生きた証を見届けてくれて――

――君の名を呼べば……今日、僕が生きた証が思い浮かぶ――




そして、それは沖田にとっての最初の、千鶴にとってはもう一つの恋が、静かに寄り添い、互いの想いを通じ合った日でもあった。


**


戯言いろは歌「浅き夢見じ 狂恋歌」

き日に、川面に浮かびし我が恋を、
らさらと髪なびかせて、君掬う(救う)。
日の想いを捨て去りし、我が心根を絡め取る。
見叶わぬ我が身なれば、夢を見果てぬ君なれば、
にも清(さや)かに青葉の陰で、淡き夢を唇に。
来の我らの行く末を、願うは愚かと人はいう。
獄に落つるも恐るるに足らず、この恋、地の果てまでも連れてゆく。

カット298


―――浅き夢見じ、酔ひもせず。
―――されど、この恋、夢見ざるは愚かなり。



注:いろは歌「夢見じ」説→「(酔ってもいないのに)浅はかな夢を見ることはしない」という一解釈で創作。



  1. 2013/10/15(火) 11:33:33|
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  1. 2013/10/15(火) 14:08:19 |
  2. |
  3. #
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素敵イラストをありがとうございました

東の方では台風が猛威をふるっているようですが、こちらに関係の皆様に影響がないことを祈ります。
ちょこさんの地域は被害はありませんでしたでしょうか・・・。

さて、今月は体調を崩されたり、リアルのお仕事依頼がたてこむ中にもかかわらず、このように素敵なイラストを付けて下さり本当にありがとうございました。
実は月末くらいにupして頂けるとばかり思い込んでしまったので、昨日外出先から何気にこのサイトを見たときは驚きました(笑)どうりで連休中はお静かだったと思いました(笑)本作の為にご負担をおかけして申し訳ありませんでした。
事後報告になりますが、早速いただいて帰って、自ブログでも掲載させていただきました m(__)m
一時は投げ出そうと思った珍作のスピンオフ編でしたが、ちょこさんの温かい励ましと愛の鞭のお陰でどうにか書き上げられてホッとしています。改めてお礼申し上げます。

冒頭イラの千鶴ちゃんの愛らしさ、井戸イラの斎藤さんの美しさ(これはおねだりした既出作品ですが・・・)そして、そして、清流での沖千カットが素晴らしくて・・・。
この総ちゃんの瞳で見つめられたら、私の文章なんか読まなくてもこのイラだけで「ちーちゃんがハジメ君を横に置いて総司君に傾くのも納得いきませんか?皆さん」って思えます(笑)

キスSSも50本越えなんですね・・・。まだまだ続くとか・・・。益々素晴らしい企画となりそうでこれからも楽しみです。どうぞ無理のないように、これからもサイト運営とご自身の創作活動に励まれてくださいね。
この度は本当にありがとうございました。



【公開コメ欄であるこの場をお借りして、蛇足の一言を・・・。】
今回の拙作には3枚の追加絵を頂きました。
内1枚は既作品を私が是非使わせてほしいとおねだりし、本来ならこのイラストのみ頂ければ追加絵の提供は済むはずでした。ですが、ちょこさんは更に追加絵を描いてくださいました。
これは以前の私の投稿作品2作が短文すぎて追加絵を辞退した経緯がありましたので、おそらくそれをちょこさんがお気遣い下さって描き下ろしてくださったものと解釈しています。
ちょこさんはこのような事をご自分で言及される様な方ではありませんので、今回イレギュラーな提供だと誤解なさる方がひょっとしておられるやもしれません。
ですが、少なくともこのキスSS企画においては、彼女は全ての作品に敬意を表し公平に扱っておられますので、そのあたりの事情をご理解いただければと思います。
ちょこさんのお人柄は私以上に皆様が良くご存じかと思いますので余計な一言ですが、例によって酔っ払いの呟きと思ってお許しくださいね。
ダラダラと長い今回の迷短編、お読み下さった方には心よりお礼申し上げます。

  1. 2013/10/16(水) 19:47:26 |
  2. URL |
  3. 酔狂元乙女 #-
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すいきょーさん、風音です。
うぅぅ…泣けました(> <) 三つ巴の感情表現(恋情表現)が三人三様、とても素晴らしかったです。
沖田さんったら、「それはテクニックですか!?」と言いたくなるような最後の最後での告白でしたね。(彼の場合は、ホントに苦しくて出たってわかってますが…)
ちょこさんものイラストも素晴らしかったです!斎藤さんの水も滴るなんとやら…色っぽかったですねぇvv
自サイトも頑張んなきゃなー…;と思いました。←あまり進んでない;;
ではでは、素敵な沖千斎をありがとう御座いました。
  1. 2013/10/17(木) 09:43:05 |
  2. URL |
  3. 風音 #-
  4. [ 編集 ]

酔狂元乙女様♪

あれ~? 昨夜返信を書いたはずなのに、UPされてない( ゚ω゚;) どーゆーこと!?
酔っ払いながら書いたせいで、『送信』をちゃんとクリックしてなかったのか…すいません; 長文を書いたのに、もはや何を書いたのかおぼろ。(いや、却ってその方が良かったのかな^^;)

改めまして
丁寧なお礼文にその上、追加絵にお気遣いまで、ありがとうございます。
おまけ絵の方は色々考えたんです。バランスから言って、二人が争うシーンあたりを描くのがいいと思ったのですが…いかんせん、画力がおいつかなくてw
せっかく刀を持ってるんですからね。たまにはちゃんと殺陣シーンも描きたいですよね。
もうちょっと精進してから、いつか挑戦してみますww
それでも、2枚の描き下ろし、気に入ってもらえたようでほっとしました。

幕末編では、斎藤さんがちょっとばかり沖田さんに押されてますよね。
まあ、この沖田さんにヨロメクのは、すっごくわかります!
けどけど、平成編では『あの』沖田さんに私は少々、む~~(`ェ´)
斎藤さんに是非頑張ってほしい!
それを期待して――お仕事大変でしょうが落ち着いたら、どちらのお話も続きを是非是非お願いしますね!!

本当に、今回は素晴らしい物語をありがとうございました!
  1. 2013/10/17(木) 10:31:34 |
  2. URL |
  3. ちょこ #-
  4. [ 編集 ]

風音さんへ♪

わーい、風音さん、読んで下さったのですね、昼メロ・愛のチャンバラ激情(劇場)へようこそ(笑)

冗談はさておき、沖千専門家の方からご祝儀であっても『泣けました』の一言を頂けて、苦労が報われた思いです。
沖田ファンからすれば突っ込みどころ満載かもしれませんが、今回は自分なりに相当沖田さんに入れ込んで書きました。
はい、これが風音さんへの、例の「沖田愛レポート」です。無事合格できたかな(笑)

先に投稿した「戯言いろは歌」で想定した簡単なストーリーが自分の足枷せとなり、そのイメージを大きく壊さずに書くのに苦労しました。
斎藤さんは、甘く優しくかつ生真面目に「言葉は要らない、ただ幸せな時間」をどう表現するか。
沖田さんは例の、「あのいじめっ子が、一体、いつ千鶴ちゃんに恋心を自覚したの?」というギャップ埋めに苦しみながら。
しかも、このカライラ2枚にはその後、幾つものSSが発表されていて、ストーリーの被りは許されないという・・・(T_T)
だから、多少、皆さんの沖田&斎藤像とギャップが出た場面があるかもしれませんが、笑って見過ごして頂ければと思います(^_^;) 

(それにしてもあの過去絵の斎藤さん水浴びイラは風音さんも萌えましたか(笑)お花シリーズの次は入浴シリーズとかどうでしょうね←オイ)

長文書いたし、ここらで休憩しようと思ったら、「この続きを早く書け!」というちょこさんの愛の鞭がさらに打たれ、トボトボ歩きだしています。
続きは大した展開にはなりません。長くても慶応3年まで、最長でノーマルED前後で打ち切って終わるつもりです。
基本は、平成中心の転生モノなんで(^.^) 平成編は二転三転の展開で混乱させ、逆にちょこさんを愛の鞭打ち返ししてあげようと思ってますので(爆)
だから風音さん、冬頃にでもその後がどうなったかウチへ覗きに来て頂けると嬉しいです(^^♪


そちらの連載はじっくりコトコト仕込中ですね♪
お忙しいご様子ですが、楽しみにお待ちしていますのでお体に気をつけて是非頑張ってくださいね。

今回は有難いコメントをお寄せくださり、本当にありがとうございました。
  1. 2013/10/17(木) 19:18:49 |
  2. URL |
  3. 酔狂 #-
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